第1章 幼少MACHAKO ダンスに出会う


その1「生まれて初めて踊ったダンス。それは・・・・・」


 私が本当に小さいときに何を踊ったのが最初の記憶なのかというと、それは幼稚園の盆踊り!自分も幼稚園の先生やってたからわかるのだけど、今風のダンスなんてそのころ(昭和40ウン年)はなかったのです。(後で出てくるけど)ピンクレディー(これも古ッ!!)だって、まだデビューしてないかった時代ですからね。。。 まぁせいぜい山本リンダくらいが「踊ってるなぁ」って感じだったんじゃないカナァ。(本当に年ばれますね)それも真似とかすると怒られてしまうしね。(これ読んでる人で身に覚えないですか??)

 そんな時代にでも子供が踊れる機会っていったら盆踊りくらいしか東京にはなかったんですよね。

 毎年夏になると夕涼み会が幼稚園であって、私はそれが大好きでした。夕方から始まって、最初は子供向けの盆踊りが流れるんです。でもそっちはわたしにとってはウォーミングアップにすぎず、7時になると、子供の部はおしまい。良い子の皆はおうちに帰りましょーって感じで大人の部が始まるんだけど、そこから私の盆踊りが始まるんです!
 実は「大東京音頭」よりもなによりも私は「安里屋ユンタ」が大好きで、その曲が沖縄民謡であることとか、そんなことなんにも知らないけど、「この曲を踊るまでは帰りたくなーい」って言って相当おかあさんを困らせてたものです。その曲の持つ、やさしさとか、メロディーの不思議さに幼い私は強く惹かれていたんですねー。本当にこの記憶がかなり鮮明でして(失笑・・・)。。。
 4歳の私は大人の踊り手さんの中でも「この人はうまいぞ」っていう人を見つけては、ちゃっかりと後ろにくっついたりしちゃって、指先の動きまでもをじーーーっとみて自分も真似して踊ってました。周りの大人たちも「この子は、大人の踊りのほうがうまいよ」って感じでのせるもんだから、ますます楽しくなってきちゃって。もう浴衣の帯なんてほどけまくって踊ってました。

 帰るよっていわれても「またあの曲が流れるんじゃないか・・・」って思ったら家に帰る気持ちなんて起きないんです。これってサルサクラブで自分の好きな曲が流れたら帰るのやめたってのと同じ感覚です!

 今思い出してもあのときのどきどきしながら、好きな曲を待つ気持ち。踊っているときの気持ちよさは忘れられないです。楽しかったなぁ。とにかく「安里屋ユンタ」を盆踊りで踊った。というのが私の踊りに触れた最初の記憶には間違いありません。
 そして今では沖縄が大好きになり最近では毎年のように沖縄にもイベントや旅行で行くようになっているのもきっとこのときの「ユンタショック」のせいだと思われてなりません。

 私のダンスチーム「シモキティータス」が沖縄のサルサバンド「カチンバ1551」の「SALSA DE YUNTA」を振り付けで踊っていますが、わたしにとってこの曲はダンスを意識し始めた始めての大切な曲なんです。

カチンバのユンタを聞いたとき、幼い頃の思い出が、ホントに思い出されて、涙が流れそうでした。「ああ、この曲が私に初めて踊るってことを教えてくれたんだなぁ」って改めて実感したんですね。

 


その2「憧れの人」

 

 小学生になって、私の興味はダンスよりも「漫画」に移ってました。なんだ全然違うじゃん!っていわれちゃいますが、なんどもいうけど、本当に今ほどダンスってものがあふれてた時代じゃないから、身近ではなかったので、もっと身近な興味ひくものに子供の心は奪われていっちゃいました。

 もちろん「クラシックバレエ」っていう習い事はありましたけど。私を知ってる人はわかると思いますが、それを習ってる私は想像できないでしょ?(笑)それがたとえ子供の頃の私であったとしても・・・・・

親も、超幼児体型の子供にバレエなんて思いつきもしなかったでしょうし、(いや、もしやりたいっていってもやらせてもらえなかっただろうな、どう考えても無理!)それに自分もバレエ漫画読んでもなんだかつらそうな主人公の毎日が描かれてて「好きじゃないな」って思ってましたね。私、漫画もあまりにもつらそうなのって嫌いなんです。

 「巨人の星」より断然「侍ジャイアンツ」派だったし。(これも古・・・・・)蛮のお父さんが鯨の背中を突き破って出てくるシーンとか見て「すげーかっこいい」って思ってましたけど。ちゃぶ台ひっくり返すようなお父さんには何も感じなかった。。。。(すいません脱線しまくりで)

 バレエの話に戻って。。。クラスの女の子が発表会があるから来て!っていうんで見に行ったこともあったけど「うわーすごい!○○ちゃん!!(顔違いすぎる!!)」って驚いたことしか印象に残ってない。(すみません)

そんな感じで小学校にあがってからは、ダンスショックうけることもなくすごしてたんですが。。。。

 ある日TVで、2人組の女の人が踊ってるのを見て、あのときの「ユンタショック」にも勝る衝撃が私にとうとうきたんです。 そうこれが自分たちの子供の頃大好きだったピンクレディーなわけですが。。
 本当に流行りましたね。クラスでは必ず振り付けを全部覚えてくる子がいて、みんなで休み時間に真似したりして。 ミーとケイってホント人気が分かれてたんですけど、私はどっちが好きだったかというと、断然ミーです。(納得?)こどもですから「迫力」も「ダイナミック」って表現も(同じか?)知らないわけだけど。
 「すごーーーー・・・・・・」「人ってこんなに動けるもの??」ってミーを見て思いましたね。。。。。
 「かっこいいな」って女のひとみて一番最初に思ったのがこのときです。

ピンクレディーの曲の中でも、私は「ウォンテッド」が一番すきなんです。「ウーーーーーーーウォンテッド!ダダラダララッタッタ」ってとこがとにかく好きで。。。。。。

 レコードはこれしか買ってもらえなかったから、B面の「逃げろお嬢さん」っていう曲の振り付けは、自分で考えて踊っていました。(笑)「逃げろ逃げろ逃げろお嬢さん、奴から逃げろー逃げろ逃げろ逃げろお嬢さん、地球の果てまでー」って今だったら「ストーカー」の歌ですね。。。
逃げろお嬢さんの振り付けは、友達にも教えてましたね。(半分押し付けてたかも・・・)

 まぁとにかくミーの踊り方が、私かなり影響されてるんですよね。こんな風にかっこよく踊りたいなーって初めて意識したのはこのときです。

 

 


その3「初めて振り付けをする。振付師MACHAKO誕生」

 

 小学校5年生になったとき、クラブ活動で私は演劇部に入っていました。何度も言うけど「ダンス部」なんて其の時代はなかったんで。(今はあるのだろうか?)

 発表会で「舌きりすずめ」をやることになって、私はおじいさん役になったんです。この頃から男役だったんですよ。(のちに大人になって芝居やっても男役をやる羽目になったんですけど)出番はそう多くないんですが、すごい作業を任されたんです。

 「この歌の振り付けは全部2人(おじいさん、おばあさん役)で作ってね」って先生にいわれました。 おばあさん役だったはつきチャンと、私はなんだかとても楽しそうなことやらせてもらえるんだーーって思い、2人で毎日会っては、振り付けを考える日々が始まりました。 この時の記憶もほんと鮮明なんですが、私は振り付けってあまり考えなくても出てきたことを覚えてます。とにかく「この歌詞はこうだからこうやろうよ」って感じでどんどん決まっていって。先生に見せたらすぐオッケーだったことも覚えてます。

 そして舌きりすずめの本番も、終わりある日のこと。 私は突然担任に校長室に連れてかれたんです。そこにははつきちゃんも呼ばれてて。そこで校長先生が言ったんですよ。「あのダンスよかったよー!2人で考えたって本当かい?」って。 「そうです」って言ったけど。ほんとうれしかったー。

 今では自分が子供にリトミックやダンスを教えててわかるけど。。子供って誉められるとすっごく認められたような、自分に自信がつくような気持ちになるんですね。 あの時は、はつきちゃんと2人で「頑張ったから誉めてもらえたんだ!うれしいねー」ってホント2人で最高の気分でした。

 今振付けててもこのときのこと、この誉められた経験があって今の自分があるかも。と思うんです。
 あのときの校長先生って今どうしているのかな、生きてらっしゃるのだったらお礼がいいたいなって思うくらい感謝しています。

                           ⇒第2章へ